2008年4月5日土曜日

Share

なんだかここ数日おぼろげながら、ぼんやりとしていた概念がわかってきた。

「Share」である

世の中のいろんな問題を有る切り口で見た場合にすっきりと見えることがある。
ここ数日この現在のWebやRealで起こっている事を「Share」を切り口に見るとよくわかってくるのだ。

そんなの当たり前じゃん、っていう人はすいません。
物分かりが悪いもんで。

例えば、今日すごく天気が良くって、なんというか日光で色彩が鮮やかになっているような感じで、道脇に咲いている花がすごく綺麗に見えた。

その時思ったのは、この綺麗に思っている感覚って、他の人も感じてるのかなってこと。
どのくらいの人が同じ感覚を持っているのだろうという興味。

これがShareの感覚の源と合致しているのかなって思う。

その花自体は誰の所有物でもなく、その花を綺麗だと思う感覚=情報は皆に共有される。
でも花自体は誰にも属していない、みたいな。

Webの世界はその「Share」の感覚をデジタルで効果的に行うことの出来る「場」なのだと思うし、まさにその「Share」の実体そのものなのではないだろうか。

情報はデジタル化されるといくらでも劣化せずに複製可能である。
その劣化されない情報はWebによって簡単により多くの人間たちに「Share」されるようになってきたんだろう。

この「Share」の考えって、結構人間のもつ「理性」の中で原始的で根本的な欲求の部分に近い所に位置するものなのでは無いだろうか。

人は根元的に「Share」したい。
または「Shareされた自分」になりたい。

ここら辺が「ソーシャライズ」というキーワードとも接点を持ってきて、ともに今のWebのあり方に大きな影響を与えているのだと思う。

そして、それはこれからの人間の生き方にも大きな影響を与えているのではないか?

今までは情報手段の限界から、各孤立したブロックでのソーシャライズであり、Shareであった。
当然そのブロックの中での満足感を味わう事ができるが、そのブロック内での満足感への依存から、えてして、ブロック外の世界に対しては、Shareしない、という壁がつくられ、それがその構成員の安心を保ってきた。

今世の中に起こっているのは、その壁がガラガラと音をたててくずれ始めているという現象なのでは。

Shareの単位がよりグローバルに地球単位になってきている。

その感覚が次のあたらしい次元に我々を導いているような感じがどうもするのだ。

そして前に書いたとおり、Shareの概念は人間の根本的快感と合致する。
みんな「わかってもらいたい」し「わかりたい」。
また、みんなに「わかってもらっている自分」になりたい。
そこに快感を覚える。

あの何かを人とShareしたときの、独特な感覚はなんだろう。
なんともいえない解放感を持っている。

何かを必死で所有している時の辛い感覚と対極にあるのだ。

人は何かを「Share」したときに開放され、軽くなる。
自分だけで所有するということは辛い事である。

もちろん全ての物事がShareされれば全てなんでも解決すると考えているわけではない。
ただ、何かを有る程度までShareすることによって、何か経済的に合理的な効果が出るという事も人間は知っているのだと思う。

考えてみたらインターネット自体が「Share」の概念のおかげで成り立っていて、効率性がとられてるんだもんね。
だからインターネットの根源にはShareがあるんだよね。

企業体だってこれからは規模とか利益とかもあるけど、いかに基本目標とか理念をShareできる人間で構成することが出来るかって事が大事になってくるんだと思う。

それが各自のHappyにつながっていくんだと思う。
必ずしも金を独占的に所有することが幸せじゃないもんね。
それを誰かとShareしたときにさ、幸せになるんだと思う。

そういう方向に世界が動き出してるように思えるのだ。

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